Disclosure 2021 | 島田掛川信用金庫の現況
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Shimada Kakegawa Shinkin Bank沿革歩み歩み勧業資金積立組合「資産金貸附所」を設立「掛川信用組合」に改組産業組合法による「有限責任掛川信用組合」に改組「有限責任島田町信用組合」を設立「保証責任掛川信用組合」に改組中小企業等協同組合法施行に伴い「掛川信用協同組合」に改組信用金庫法施行に伴い「島田信用金庫」に改組信用金庫法施行に伴い「掛川信用金庫」に改組掛川信用金庫と島田信用金庫が合併し「島田掛川信用金庫」となる1879年(明治12年)1892年(明治25年)1901年(明治34年)1929年(昭和4年)1936年(昭和11年)1950年(昭和25年)1951年(昭和26年)1952年(昭和27年)2019年(令和元年)11月24日7月 8日6月24日6月 5日4月27日3月 1日10月20日2月21日6月24日常勤監事鶴木文司常勤理事小澤 浩常勤理事佐藤哲哉常勤理事林 伸哉常勤理事大石久志常務理事中村英之常務理事松浦 功常務理事千葉靖史会長市川 公理事長伊藤勝英常務理事佐藤基幸常務理事井野 守常務理事天野佳弘常勤監事松井孝司岡田良一郎之像(本店) 二宮尊徳の高弟である岡田良一郎が地域振興を目的として1879年(明治12年)に設立した勧業資金積立組合が、現在の島田掛川信用金庫の前身です。 岡田良一郎は佐野郡倉真村(現在の掛川市倉真)の惣庄屋を務める岡田佐平治と貞の長男として1839年(天保10年)に生まれました。佐平治は乙星耕地報徳社(現在の倉真報徳社)を立ち上げ、安居院義道庄七の仲介で二宮尊徳と会い、報徳思想を学びました。尊徳から直接伝授された報徳仕法「農村復興・財政立て直し」のやり方を基に、遠州地方に報徳運動を推し進めました。尊徳と報徳思想に深い感銘を受けた佐平治は、尊徳に許可をもらい、良一郎(当時16歳)を栃木県日光にあった二宮塾に入門させました。良一郎は尊徳から「遠州の小僧」と可愛がられ、直接に教えを受け、実践を通じての報徳思想・報徳仕法を身につけて掛川に帰郷しました。そして父佐平治とともに、遠江(現在の静岡県西部)の報徳運動の指導にあたりました。このため倉真地区は報徳社活動の一大拠点となりました。 良一郎は報徳社を大いに発展させる一方、1874年(明治7年)事業育成や農業、工業などの産業奨励のために、半官半民の「資産金貸附所」を創設し、岡田家家訓「雲仍遺範(うんじょういはん)」による岡田家推譲(すいじょう)の報徳金やほかの推譲金を資産金にして貸付を始めました。1879年(明治12年)佐野城東郡(現在の掛川市と菊川市の南部)の郡長に命じられたのを機に、産業発展を推進するため、資産金貸附所の実力を倍加することを目的として、別に勧業資金積立の組合を作って事業を始めました。これが旧掛川信用金庫の創始です。 一方、旧島田信用金庫は1929年(昭和4年)6月に「有限責任島田町信用組合」として歩みを始めました。 迎えた2019年(令和元年)6月に旧掛川信用金庫と旧島田信用金庫は合併し、「島田掛川信用金庫」として歩みを始めました。 ※雲仍遺範・・・雲仍とは子孫のこと。遺範は子孫に残す家訓。 ※推譲・・・分度のある生活をして、余財を蓄え、家族・子孫・社会に譲る。28

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